懐かしい本の名前が連なっていたので手に取りました。
というわけで今回紹介する本は『挑発する少女小説』です。
主な内容
19世紀後半~20世紀前半に発表され、21世紀の現在も読まれ続ける「少女小説」。なぜ多くの女性が少女時代の一時期にこれらの小説に夢中になったのか、という疑問から少女小説を読み直し、そこに描かれるものを見つめてみた、という内容です。
取り上げられている作品
以下9つの作品が取り上げられています。
バーネット『小公女』
オルコット『若草物語』
シュピーリ『ハイジ』
モンゴメリ『赤毛のアン』
ウェブスター『あしながおじさん』
バーネット『秘密の花園』
ワイルダー『大草原の小さな家』シリーズ
ケストナー『ふたりのロッテ』
リンドグレーン『長くつ下のピッピ』
「少女小説」4つの特徴
少女小説とは「家庭を主な活動の場とし、将来的にも家庭人となることを期待された少女のためのジャンル(4頁)」のことです。そんな少女小説には、4つの共通する性格があります。
① 主人公はみな「おてんば」な少女である。
② 主人公の多くは「みなしご」である。
③ 友情(同性愛)が恋愛(異性愛)を凌駕する世界である。
④ 少女期からの「卒業」が仕込まれている。
もともと少女小説は「良妻賢母教育のツール(10頁)」として用いられていた節もあり、おてんばな女の子が紆余曲折を経て淑女になっていく、表面的にはそんな「保守的」な終わり方をしている物語が多い、とのこと。しかし実際はどーなのか?
一読した感想
さて、9編のうち私がかつて好きだったのは『小公女』と『若草物語』でした。特に『小公女』は、偕成社文庫の表紙の深窓の令嬢的なイラストも相まって印象深い作品です。
崩れ去る思い出~タカビーなセーラ~
セーラが好きだった私はしかし、本書でセーラが上から目線で階級意識に乏しい高飛車な「姫」と指摘されていたことにショックを受けました。さらに個人的に好きなシーン「拾ったお金でパンを買う」に対する辛辣なコメント。
「ある冬の雨の日、セーラは町で銀貨を拾い、ひもじさのあまり、拾った銀貨で丸パンを買います。パン屋のおかみさんはパンをオマケしてくれますが、六個のうちの五個までを、彼女はぼろをまとった「乞食の女の子」にやってしまう。本当は空腹なのに、プライドが邪魔をして、与える側に回ってしまうアホらしさ。(31頁)」
うぐぅ。自分のことを差し置いて、もっと空腹な人に多くパンをあげるなんていい子だなぁ、と思っていましたが、確かにプライドが高いだけかもしれません。施しをするなんて、そんな余裕のある立場ではないのに。
自分の道は自分で切り開け
さて、裕福な暮らしから一転、父の死によりどん底生活をしていたセーラが、物語の終盤でV字回復した要因について、おとぎ話との違いが次のように指摘されています。
「ひとつは、王子の役割を果たしたのが、ホンモノの王子とは真逆の異国から来た隣家の召使いであったことです。(中略)もうひとつは、この幸運がセーラの資質によるものだったことです。(34頁)」
セーラの資質とは、物おじしない毅然とした態度と、たぐいまれなる言語能力のことです。
「彼女の王女さま然としたものごしや、可愛げのない言動や、過剰なプライドは一生変わらないかもしれません。しかし、魔法の力を借りなくても、人の力で道は開ける、美貌の力で男に選ばれるだけが物語の上がりではないと、『小公女』は主張します。(40頁)」
『小公女』にそんなテーマがあったとは……と思いました。セーラ可愛い、セーラ可哀そう、セーラよかったね、くらいしか思わなかった私は下女ベッキーの末裔の予感。
なんというか、大多数の(?)人にとっては毒にも薬にもならぬ読み物だけれども、一部のバイタリティ溢れる女子にとっては、「そんなんで負けんじゃないよ」と激励された気分になれる小説、それが少女小説なのかもしれません。
来し方の少女小説
『若草物語』は、『第四若草物語』まで読んだ記憶がありますが、三女のベスが好きすぎて主人公ジョーのことはほぼ眼中になかったので、いつか再読したいと思います。
また、未読のもので読んでみたいのは『あしながおじさん』です。主人公のジェルーシャ・アボットが18歳ということで、意外とハイティーンだったので気になりました。
かつて少女だった人は、9作のうちひとつくらいは人生で目にしたか手に取ったかしたことがあると思います。本書を読んで、もう一度思い出の本を読み返してみるのはいかかでしょうか。